【一法相,是如来之覚】
これが<一相法>と訳されたり。
は<相>と漢訳されているが【記号】と訳さねばな
らない。<唯一の法の記号>(一法相)
【是如来覚】(是
(コレ)
ぞ,如来の覚なり)
これは“是,如来の正覚”なり。
如来(仏陀)の正覚とは【唯一の法の記号】の正覚を云うなり。
釈尊が,菩提樹の下で<正覚
(ショウカク)
>されたものは「唯一
の,法の記号」なのだ。
だから,法の記号を抜きにして仏陀の教えはあり得ない。法の記
号の教えが仏陀の教(仏教)の根本であり要
(カナメ)
である。
【唯一の法の記号,是
(コレ)
ぞ,如来の正覚】
仏教の根本,仏教の要
(カナメ)
は【唯一の法の記号】である。
そのような者を仏陀の弟子だの,仏教徒だの,僧だのと呼ぶこと
は出来ない。
<
eka
>(
唯一の)の別語は
<
a-dvaya
>
(無二の)である。
と申す。
このことは,梵和大辞典p.31をよく見ればわかる。
とは<説き告げる人><教師>である。
しからば<法の記号>とはいかなるものであるか?
漢訳は<正法像似><像似正法>である。これはよく知られた
ことである。
だが,これが<正法 ・ 人 ・ 象 ・ 似>
<人 ・ 象 ・ 似 ・ 正法>
であると見抜いた学者は居ない。
“正法(妙法)は人の象
(カタチ)
に似たる記号”と云われても,そ
れがどのようなものであるかは誰れにも知れない。
ひとたび失われたならば,次の仏陀(如来)が出現する時まで人
々は知ることが出来ない。
大陸から“仏教”と称するものが伝来して約千五百年間,誰れ一
人として“人の象に似たる正法の記号”を顕現し,開示宣説した者
は居ない。だから人々は知らない。
倭成は,昭和五十二年七月二十九日に“人の象に似たる正法の記
号”を顕現した者である。
それ以来一貫して“人の象に似たる正法の記号”を説き告げて来た。
(仏陀)(如来)なのだ。
【人の象に似たる正法の記号】
これが<百聞は一見にしかず>となった。
“百の説法,経一ツ”と申す。
が<anuttara>となり<patha>が抹消され
て,<阿耨多羅三藐三菩提>となった。
【三種の要素にて成る神器】(三種の神器と申すは誤りなり)
このようなことは中学生でもワカルコトだ。
法の記号を説き告げない者が,どうして仏陀の弟子(僧)であり
得ようか。
大陸から“仏教”と称するものが伝来して千五百年間,誰か一人
でも,仏陀にかわって<法の記号を説き告げた者>がいたか。
日蓮がまことの仏陀の弟子であれば,必ず“法の記号を説き告げ
た人”でなければならない。
最澄(天台宗)がまことの仏陀の弟子であれば,必ず“法の記号
を説き告げる人”でなければならない。
空海(眞言宗)がまことの仏陀の弟子であれば,必ず“法の記号
を説き告げる人”でなければならない。
栄西 ・ 白隠 ・ 道元の禅師(禅宗)たちがまことの仏陀の弟子であ
れば,必ず“法の記号を説き告げる人”でなければならない。
法然(浄土宗) ・ 親鸞(浄土眞宗)がまことの仏陀の弟子であれ
ば,必ず“法の記号を説き告げる人”でなければならない。
仏僧ではなく“物騒な者”にすぎないことになる。仏頭狗肉の徒
輩と云うことになる。
僧の資格がない者たちを師と崇め,大師と崇めて来た人々が哀れ
と云うことになる。